mayakeroのブログ

ヤマシタマヤです。https://www.instagram.com/maya_kero/

原発について書いたレポートを振り返ってみる。

 

原発について、時には真剣に、時にはなまけてお勉強していました。

私は今まで3つのレポートを書いています。とりあえず、今日はそれらを振り返ってみます。

 

○とある授業で○

二年生の前期は、姜尚中、テッサ・モーリ・スズキの『デモクラシーの冒険』を読み、3.11後の原発問題を参照しつつ、民主主義の課題について論じました。

 

〈要約〉→二つの原子力ムラが民主主義の邪魔をしている。

 

政府は、脱原発のデモ行進に参加する人々のプラカードに書かれていることを政策に落とし込まない。このように民主主義が機能しないのは、政官財の癒着が改善されず、公的領域と私的領域の境界線の消失が進行しているからである。このレポートでは、開沼博さんの著書『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたか』を参考にした。本書によると、日本の原発は、地方の側にある原発及び関連施設を抱え地域をさす「原子力ムラ」と原子力を導入して広めたい側の〈原子力ムラ〉との共鳴によって維持されてきたと書かれている。その共鳴が、デモクラシーの基本をままならなくするのだろう。逆にいうと、核・原子力は、反民主主義的な力が働かなければ維持されないということだ。

 

 

二年生の後期には、吉岡斉さんの『新版 原子力の社会史 その日本的展開』を読み、原子力の未来はどうなっていくのかということを論じました。

 

〈要約〉→原発に未来はない。

 

その際、小熊英二さんの『社会を変えるには』を参照にした。中身を引用すると、日本国内では今後原発は撤退していかざるをえないが今すぐやめることはできない。なぜなら、原発を手放せば、電力会社、電力会社に融資した銀行、社債や株を買った保険会社などが巨大な損失を被るからだ。しかし、廃棄物の貯蔵先や最終処分を引き受けてくれる自治体もない。なので原発の未来は見えない。木質バイオマス発電に希望を持ち、持続可能な循環社会へと舵をきろうと述べた。

 

今読んでも、どちらのレポートもとても拙い。。。

 

  • 三年生のゼミ論で

 

〈要約〉→核アポカリプス不感症は治療できる。なぜなら人は想像力の力を持っているから。

 

ゼミ論では、佐藤嘉幸さん、田口卓臣さんの『脱原発の哲学』人文書院を参考に論じた。私は、日本では二つの核アポカリプス不感症が広まっていると考えた。アポカリプス不感症とは、原発や原爆、劣化ウラン弾などの核の危機と私達は常に隣り合わせであるのにも関わらず、それを感じない状態のことを言う。核アポカリプス不感症の要因の一つとして例えば、核抑止力言説が挙げられる。私は、フクシマ以後日本で広まるその症状は、フクシマの事故に対する不感症と世界中の核兵器による戦争、原子力発電所の事故にも不感症であると言う点で二重の特徴があると述べた。その要因の一つは、現在の社会で機能し再生産されるシステムである。行政官僚制や利益を第一に考える企業が作るマーケットメカニズムだ。そして二つ目は、私達1人ひとりの思考や社会へのまなざしだと考えた。そしてこの二つの要因は相互にし合っており、その関係性を明快に示しているのは、イブァン・イリッチのいう学校化社会、価値の制度化であるという仮説を立てた。現代社会は、学歴社会といった側面もまだ残っている。戦後の日本の教育システムは、受験体制を子供社会の中に作った。多くの子供達は、教授されることと、学習することを混同するようになる。そうすると大人になっても政府関係者の人々などは「原発を稼働させなければならないことは社会的に、倫理的にどのような意味を持つのか」を考えなくなるようになるのだ。「考えてもそれは無駄だから」そういう思考になるのかもしれない。「どうして、数学の点数をとらなければならないのか」そういう思考は無駄だと学んだようにである。私は核アポカリプス不感症を治療するための手段は多くあるが、教育、司法に可能性があると論じた。もちろんビジネス、メディアのあり方にも期待したい。

 

以上、レポートにこんなことを書いていたのかと整理することができよかったです。